地域で活躍する人や、地域の応援・支援をしていただいている人々をクローズアップ。 山や川の自然を守り、地域を守る人たちを知ると、その地域の文化や風景が見えてきます。

vol.1[1]尾崎製紙所 片岡あかり さん

仁淀川町で“頑張りゆう人”を伝えたい!応援したい! 地元出身ライターが、仁淀川町の魅力溢れる方々をご紹介。


記念すべき1回目は、仁淀川町の寺村・岩戸地区で紙漉きを生業とする「尾崎製紙所」の4代目・片岡あかりさんにインタビューしました。

世界も認める伝統和紙「土佐清帳紙」
その伊吹を受け継ぐ4代目

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仁淀川町はかつて、紙漉きが盛んであったことはご存じだろうか?

紙の原料となる楮(こうぞ)の栽培に適した土地で、紙漉きを家業にする家が多かった。

とくに、寺村地区における製紙の歴史は古く、地域全体で楮の栽培にも力を入れていたという。

明治から大正10年(1921)にかけては135戸あった家のうち、70戸が紙漉きを家業としていたほど盛んだったが(参考:吾川村史 上巻)、

いまでは「尾崎製紙所」たった一軒だけとなってしまった。

 

尾崎製紙所で現在まで継承され、生産されているのが「土佐清帳紙」だ。

楮を原料とし、トロロアオイの粘りを加え、ススキの茎を継いで作った茅簀(かやす)で漉いた和紙のこと。非常に耐久性に優れ、各種記録用の用紙や書道、版画の用紙として根強い支持を受けていて“千年長持ちする紙”と称されている。

 

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じつは取材した当日も、東京から「国立国会図書館」の学芸員の方たちが、修復に使う土佐和紙について学ぼうと、尾崎製紙所に紙づくりの視察に来ていた。2016年秋には、フランス・パリの「ルーヴル美術館」のスタッフが来日・視察に来る予定となっているほど、じつは尾崎製紙所は、製紙業界で名の知れた存在なのだ。

 

というのも、古くから伝わる伝統の技法で清帳紙づくりを継承している唯一の製紙所だからだ。

尾崎製紙所の紙づくりは清帳紙の原料となる楮の栽培からはじまる。

刈り取った楮の束を甑(こしき)という巨大な蒸し器に入れて蒸し上げ、手作業で皮を剥ぎとる。一度天日干しした後、黒い部分を削り落とす「へぐり作業」で白皮にする。次に、楮の繊維をほぐすため消石灰で煮る。そして「さな」と呼ばれる場所で白皮を水にさらし、日光に当てることで皮はさらに白さを増す。

 

これまた手作業で地道に塵取りをして、打解機で打ち付け皮をやわらかくし(ここでやっと機械が登場)、ビーターという機械で溶かされ白い塊となった楮皮が紙料となる。この紙料と水、トロロアオイを撹拌したものを漉く。そうして紙の形になった“湿紙”を板干しして日光にさらす…。

 

と、ここまで急ぎ足でご紹介した工程は、文字量の関係でかなり割愛した文章になってしまったのだが、ここでは言い切れないほど地道で大変な作業が日々続くのである。

 

これらの工程をほぼ手作業で進めているのが、4代目であるあかりさんをはじめ、ご両親・尾崎孝次郎さんと文故さん、祖母の宮子さん、あかりさんの夫の久直さんたち。紙づくりに適した、非常に希少な環境に身を置き、最高の清帳紙をつくるため家族総出で作業にあたっている。

 

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尾崎製紙所を語る上で決して欠かせないのが、あかりさんの祖父にあたる2代目、故・尾崎茂さんの存在だ。尾崎製紙所の礎を築いた人といってもいい。

 

茂さんには興味深いエピソードがある。

 

ある日、とある書道家から、それまで尾崎製紙所で作っていた倍の大きさの清帳紙を作ってほしいと依頼された。

それまでの定形を変えるということは、紙を漉くための茅簀の新調など一朝一夕でできるものではない。試行錯誤の末開発された63×183cm(2尺×6尺)の清帳紙に、その書道家はいたく感動し、評判が広がっていった。

今では尾崎製紙所の清帳紙といえばこの大きさがスタンダートとなった。

 

また、同じ書道家から、楮ではなく、三椏(みつまた)100%を使った和紙を作ってほしいという依頼も舞い込んだ。これまで三椏は繊維が短く茅簀との相性は悪いとされていたが、ゆっくりと慎重に漉くことで「清光箋(せいこうせん)」という墨の発色や濃淡の表現に優れる紙を生み出した。

 

これらの紙は、書道家、版画家などの芸術家に評判が高く、海外のアーティストからも支持されているほど。アメリカやカナダにも輸出しているというから、尾崎製紙所の看板といってもいいヒット商品だ。

 

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「土佐和紙自体、あまり紙が売れんかった時代があったが。でもうちはおじいちゃんが良いお客さんをつけてくれちょって、あんまり影響がなかった。そのお客さんはいまでもずっと買うてくれるがよ。そのお陰で今こうやって生活できるというのは、ほんとにありがたいこと。高知県でこういう風に家族総出で紙づくりをしゆうのは、うちぐらいしかおらんがよ」と、ほがらかに笑いながらあかりさんは2013年に亡くなった祖父・茂さんのことを振り返る。
「おじいちゃんが亡くなったときは、こんなにショックを受けるとは思わんかった。いなくなったらね、聞こうと思っても聞けん。おじいちゃんが元気やったときは私が20代の頃で、私自身もうちょっとその時、紙に興味があったら質問もいっぱいできちょったのに…。そのときは全然興味がなく、というか、この紙づくりに恵まれた環境が当たり前の世界やったきね。昔の紙のことを知っちゅう人がどんどんおらんなる」

 

紙づくりに取り組みはじめて気づいた“継承”の問題。伝統をいかに絶やさないか、試行錯誤の日々だ。

「じつは紙づくりだけじゃなく、紙を漉く道具づくりの継承についても考えていて、土佐市に住む85歳のおじいちゃんに今は頼みゆうがやけど、この先を考えると色々と大変なことになるなと。だからね、やっぱり技術者を大事にしちょかないかんなと。紙の知識を絶やさないという意味でも」

 

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あかりさんは3人姉妹の次女である。

19歳のとき、母・文故さんが体調を崩したことをきっかけに、紙漉きの世界に身を投じることを決心した。

 

「私が小学2、3年生の頃に、『私が継ぐ!』と言うたが(笑)。それでおじいちゃんはてっきり私が継いでくれるもんと思いよったみたい。お姉ちゃんや妹はそんなこと一切言わんかった。普通の家ってお手伝いといえば、皿洗いとかやろ? でもうちら姉妹は、紙の原料をこぶらされたり、重たい板を運ばされたりして小学校の頃から紙づくりの手伝いをやりよったがよ。おじいちゃんも見る目ある人で、長女やき継がせるというよりは、向いてる子をということで私に期待をしちょったみたい」

 

しかしあかりさんは、高校卒業後、紙づくりと関係のない分野の専門学校に進学することに。

「合格したことをおじいちゃんに伝えたとき、『落ちれば良かったのに』と言われたが。そのときやっぱり“私がやらないかんのかな”という気持ちに当然なるわけで…。その後、お母さんの体調のこともあって、一回考え直そうと学校をやめて家に戻ってきた。紙漉きをやりたいというよりは、手伝いをして、紙漉きがいかんなったら別の仕事をして…というぐらいにしかそのときは考えてなくて。気楽な気分やったね(笑)」

 

そうして製紙業へと踏み出したあかりさん。

しかし、現在のように迷いなく紙のことに打ち込むまでに、さまざまな葛藤が待っていた。

 

 

(写真・文 ながやかなえ)

 

 

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片岡 あかり [Kataoka Akari]

尾崎製紙所

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