昨日、土佐の国と伊予の国を結ぶ旧松山街道の黒森越え要所の鈴ケ峠(すずかとう)に向かいました。
仁淀川町で調査が始まって間もない旧松山街道は物資の運搬の道でもあり、また幕末の志士たちの逃散や軍事の道でもありました
いわゆる「脱藩の道」です
越知町と仁淀川町の町境の寺村より黒森山へ山頂向かう道を進んでいきます
午前9時過ぎに仁淀川町役場を出発
かなりの山道で走り進むにつれて道が狭くなっていきます
9:43
「岩戸集落跡」の標識
この山の斜面のどこに集落があったのか??
少し進むと⇐「旧松山街道」の看板
看板から3~4分で鈴ケ峠に到着しました
二基の灯明台
標柱には
松山討伐の道 慶応四年二月
勤王志士脱藩の道・中浜万次郎帰国の道 と記されています
向かって右側の灯明台には
天晴元卯九月十六日
土佐では、明治元年の前年に当たる慶応3(1867)年に「天晴」年号が各地で使われました
『天晴』に改元される」とうわさが流れ、世直しを求める民衆が藩の許可を得ずに使ったとされるという説がありますが、定かではありません
灯明台の土台には寄贈者の名前が彫り込まれています
灯明台を調査・記録
「見ノ越(みのこし)」の看板がこれからの行先を指しています
10:09
灯明台を後にして松山街道を歩き始めました
10:20 道が分岐する地点
矢印の方向は斜め右下を間違いなく指しています
先へと進んで行きます
道が狭くなってきました
進んで行くと間伐作業をしている方に会い、この先の道の状態を聞くことができました
間伐の為に車が入りやすいように広げたため
以前の道の形状と少し変わっているそうです
この先を進むと昔の状態の松山街道がある
10:40
確かにありました
急こう配をつづら折りに歩き進む道が続きます
道が分岐して分かりずらい所に目印を付けていきます
傾斜がきつい狭い道
落ち葉や小石が更に歩きにくくしています
10:46
ここが一番怖かったです
切り株をよけるように歩き進めます
立ち止まって皆が見ている先に大きな穴が開いています
どうやらここで炭を焼いていたのではないかと言われていました
更に足元を気にしながら進んでいきます
11:20
その昔ここにお堂があったという場所に到着
現在はお堂の周囲の石積みが残っているだけですが
小さな祠に弘法大師石造が安置されています
かなり歩き続け足に疲労がたまってきました
この場所で少し休憩をとり
11:40再び歩き始めます
11:54
小さな沢を渡り進みます
12:00
下界にやっと辿り着きました
かなり古い看板が足元に
標高830mの鈴ケ峠から一気に約700mほどまで降りてくるのは
いくら下りだからとは言え大変でした
昔はこの道を人力や牛馬での物流
そして病人が出れば担架を作り担いで運んだりということがあったことを思うと
現代人の私達がいかに柔な体になってしまったのか思い知らされる時間でした
小野